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横浜地方裁判所 平成3年(ワ)2490号 判決

原告

鈴木敏男

ほか一名

被告

神奈川県

ほか一名

主文

一  被告清水幸子は、原告ら各自に対し、八四九万三三七二円及びこれに対する平成二年一〇月二八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らの被告清水幸子に対するその余の請求及び被告神奈川県に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告らと被告清水幸子との間においては、原告らに生じた費用の四分の一と右被告に生じた費用の二分の一を右被告の負担とし、その余は原告らの負担とし、原告らと被告神奈川県との間においては、全部原告らの負担とする。

四  この判決の主文一は、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、連帯して、原告各自に対し、二〇七三万八六三八円及びこれに対する平成二年一〇月二八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  1につき、仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

(被告ら)

1 原告らの請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

(被告神奈川県)

3 仮執行免脱宣言の申立て

第二当事者の主張

一  請求原因

1  交通事故の発生(以下「本件交通事故」という。)

(一) 日時 平成二年一〇月二七日午後五時二〇分ころ

(二) 場所 神奈川県足柄上郡大井町六六番地先国道二五五号線路上

(三) 加害車 普通乗用自動車(相模五三ま九四〇二)

運転者 被告清水幸子(以下「被告清水」という。)

(四) 被害車 自動二輪車

運転者 訴外亡鈴木哲也(以下「哲也」という。)

(五) 事故態様 被害車は、加害車の前部左側に衝突して転倒した。

2  哲也の受傷及び死亡に至る経緯

哲也は、本件交通事故によつて外傷性肝破裂等の傷害を負い、その後救急車で被告神奈川県が経営する訴外神奈川県立足柄上病院に搬入された。右病院において、訴外中村俊一郎医師(以下「中村医師」という。)の診断・治療を受け入院したが、同月二八日午後〇時五三分、外傷性肝破裂による出血性シヨツクが原因で死亡した。

3  被告清水の責任

被告清水は、加害車を所有し、自己のために運行の用に供していた者であるから、自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)三条に基づき、原告らに対し本件交通事故による後記損害を賠償する責任がある。

4  被告神奈川県の貴任

(一) 診療契約

哲也は、前記のとおり、神奈川県立足柄上病院に搬入され、原告らは、平成二年一〇月二七日午後六時ころ、右病院から、哲也が交通事故で受傷し救急車で同病院に搬入されたことを知らされたが、それらの際、哲也及び原告らは、被告神奈川県との間で、同被告において、哲也が本件交通事故により負つた傷害について、現代医学において一般的に認められた水準の臨床医学上の知識及び技術を駆使して可及的速やかに右傷害の部位・内容を適確に診断したうえ適宜の治療行為をなす旨の診療契約を締結した。

(二) 中村医師の過失ないし債務不履行

中村医師は、神奈川県立足柄上病院に勤務する医師であるところ、哲也に対する診断・治療を行つた際の次の不法行為上の過失ないし前記診療契約上の債務不履行により、同人を死亡させたものである(以下「本件医療過誤」という。)。

交通事故に遭い救急車で搬入された患者に対しては、外傷はもちろんのこと脳その他臓器の損傷を疑い、適切な処置を取るべきであるにもかかわらず、これを怠り、中村医師は、哲也が自動二輪車で走行中普通乗用自動車と接触して転倒し傷害を負つて救急車で搬入されたことを知つていたのに、骨の損傷の有無にのみ気をとられて臓器損傷の疑いを抱かず、外傷性肝破裂を見落とし、適切な診察・治療を行わなかつた。

とくに、病院へ搬送された時から哲也が訴えていた疼痛は、体動痛というよりむしろ自発痛であり、かつ、激しい体動を繰り返す程の痛みであつたのであるから、単なる打撲や骨折のみならず臓器損傷を疑うべきであつた。しかも、エツクス線写真撮影を施行したところ第一腰椎右横突起骨折を確認し、哲也の身体の前面部にのみ各種打撲症状を認めたのであるから、本件交通事故によつて哲也の腹部に強い外力が加えられたことは容易に推認できたはずである。その上、神奈川県立足柄上病院は右各検査に必要な設備を備えており、また、右各検査は簡単に行えるものであつた。したがつて、中村医師は、外来診察時から臓器損傷を疑つて、腹部のエツクス線写真撮影や超音波検査(エコー)、さらには末梢血検査等を行い、臓器損傷の有無を確認すべき義務があつたというべきである。しかるに、中村医師は、外来診察時において、臓器損傷を疑うことをせず、右各検査をいずれも施行しなかつた。もし、右各検査を施行していれば、早期に外傷性肝破裂を発見できたはずである。

さらに、中村医師は、哲也の訴える疼痛に腑に落ちない点があつたことから経過観察のために入院させたのであるから、入院後も適宜血液検査を実施し、ベツドサイドを訪れて直接容態を診るなどして観察を行い、また、看護婦に対して観察し報告すべき事項を指示し、絶えず看護婦との連絡を密にして緊急の場合に直ちに即応できるように備えるべきであつたにもかかわらず、これらを怠り、検査・治療を行わず、ベツドサイドを訪れることもなく、投与した鎮痛剤の効果が現れなかつたことを確認することもせず、また、看護婦との連絡を密にしないばかりか看護婦からのドクターコールも繋がらない有り様であり、不穏状態に陥るまで哲也を放置した。

以上のとおり、中村医師は、臓器損傷の有無を確認するためになすべき諸検査を行わず、外傷性肝破裂を発見することができないまま哲也が不穏状態に陥るまで適切な処置を取らずに放置したことから、哲也は外傷性肝破裂に起因する出血多量で死亡したのである。

(三) したがつて、被告神奈川県は、中村医師の不法行為について、その使用者責任(民法七一五条一項)に基づき、また、履行補助者である中村医師の債務不履行について、診療契約上の債務不履行責任に基づき、原告らに対し本件医療過誤による後記損害を賠償する責任がある。

5  損害

本件交通事故及び本件医療過誤の競合により、哲也ないし原告らは、次の損害を被つた。

(一) 哲也に生じた損害 五七五〇万七二七七円

(1) 逸失利益 三九五〇万七二七七円

哲也は死亡時一六歳で、日本大学三島高等学校一年に在学中であり、本件交通事故ないし本件医療過誤によつて死亡しなければ、一八歳から六七歳までの四九年間は就労可能であつたはずである。そこで、平成元年賃金センサス産業計企業規模計男子労働者学歴計による年収額四七九万五三〇〇円を基礎として、生活費控除率を五〇パーセント、中間利息の控除をライプニツツ式により死亡による逸失利益を算定すると、次の計算式のとおり三九五〇万七二七七円となる。

四七九万五三〇〇円×(一-〇・五)×(一八・三三八九-一・八六一四)=三九五〇万七二七七円

(2) 慰謝料 一八〇〇万円

死亡による慰謝料は、一八〇〇万円が相当である。

(二) 原告らに生じた損害 二六〇万円(原告ら各自)

(1) 慰謝料 二〇〇万円(原告ら各自)

哲也の死亡による原告らの慰謝料は、各二〇〇万円が相当である。

(2) 葬儀費用 六〇万円(原告ら各自)

原告らは、哲也の死亡により、各自、少なくとも六〇万円の葬儀費用の負担・出捐を余儀なくされた。

(三) 相続

原告鈴木敏男(以下「原告敏男」という。)は哲也の父、原告鈴木陽子(以下「原告陽子」という。)は哲也の母であり、原告らは哲也の死亡により同人の右(一)の損害賠償請求権を各二分の一の割合で相続した。したがつて、原告ら各自が相続した債権額は、(一)の合計五七五〇万七二七七円の二分の一である二八七五万三六三八円(円未満、切捨て)となる。

(四) 損害の填補 二五〇〇万円

原告らは、哲也の死亡により自賠責保険金二五〇〇万円の支払を受けた。

(五) 既払額控除後の損害 一八八五万三六三八円(原告ら各自)

(四)の既払額について、原告ら各自二分の一の割合の相続分に応じて一二五〇万円を控除するのが相当である。そこで、(二)の原告ら各自に生じた損害と(三)の原告ら各自が相続した債権額との合計三一三五万三六三八円から右一二五〇万円を控除すると、一八八五万三六三八円となる。

(六) 弁護士費用 一八八万五〇〇〇円(原告ら各自)

原告らは訴訟代理人に対する弁護士費用の負担・出捐を余儀なくされたが、右費用のうち本件交通事故ないし本件医療過誤と相当因果関係の認められる損害額は右(五)の一八八五万三六三八円の約一割が相当であるから、弁護士費用は原告ら各自一八八万五〇〇〇円となる。

(七) 以上によれば、原告ら各自の損害賠償請求額は右(五)と(六)との合計二〇七三万八六三八円となる。

6  よつて、原告らはそれぞれ、被告清水に対しては不法行為に基づく損害賠償として、被告神奈川県に対しては不法行為(民法七一五条一項)ないし債務不履行に基づく損害賠償として、連帯して二〇七三万八六三八円及びこれに対する本件交通事故ないし本件医療過誤の日の後である平成二年一〇月二八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する被告清水の認否

1  請求原因1(一)ないし(四)は認める。(五)は、被害車が加害車に衝突して転倒したことは否認する。本件交通事故の態様は、後記五(被告清水の抗弁)のとおりである。

2  同2は、哲也の死亡原因は不知、その余の事実は認める。

3  同3は、被告清水が加害車を所有し自己のために運行の用に供していた者であることは認める。

4  同5は、原告らが哲也の両親であり、同人の死亡により各二分の一宛相続したこと及び原告らが哲也の死亡により自賠責保険金二五〇〇万円の支払を受けたことは認め、その余は争う。哲也が死亡した直接の原因は、本件交通事故にあるのではなく、事故後の治療行為にあると考えられるので、本件交通事故と哲也の死亡との間に相当因果関係はなく、死亡したことまでの責任は被告清水にはないというべきである。

三  請求原因に対する被告神奈川県の認否

1  請求原因1は、原告ら主張のころ、哲也が自動二輪車を運転中、被告清水が運転する普通乗用自動車と衝突して転倒したことは認め、その余は知らない。

2  同2は、哲也が本件交通事故により傷害を負つて救急車で被告神奈川県が経営する神奈川県立足柄上病院に搬入され、右病院において中村医師の診断・治療を受けたこと、及び平成二年一〇月二八日午後〇時五三分死亡したことは認め、哲也の死因に関する主張は否認する。

3  同4について

(一) 同4(一)は、哲也が被告神奈川県との間で原告ら主張の診療契約を締結したことは認め、原告らが被告神奈川県との間で診療契約を締結したことは否認する。

(二) 同4(二)は、中村医師が神奈川県立足柄上病院で勤務する医師であつたこと、同人が哲也に対する診断・治療を行つたこと、エツクス線写真撮影を施行したところ第一腰椎右横突起骨折を疑わせる所見が認められたこと、哲也に対して腹部のエツクス線写真撮影、超音波検査(エコー)及び末梢血検査を実施しなかつたこと、並びに哲也を経過観察のため入院させたことは認め、その余は否認ないし争う。後記四3のとおり、哲也に対する診断・治療に際し、中村医師に過失及び債務不履行はない。

(三) 同4(三)は争う。

4  同5は、原告らが哲也の両親であり、同人の死亡により各二分の一宛相続したことは認め、その余は不知ないし争う。

四  被告神奈川県の主張

1  哲也の診療経過

(一) 哲也は、平成二年一〇月二七日午後五時二〇分ころ、自動二輪車を走行中、普通乗用自動車と接触して転倒し全身打撲の傷害を受けたとのことで、同日午後五時三五分、救急車で神奈川県立足柄上病院に搬入され、同病院で外科医の中村医師の診察を受けた。外来診療時、問診を行つたところ、哲也は、右側胸部及び右大腿部を打撲した旨を告げ、右側胸部痛、右大腿部痛及び呼吸苦を訴えていたが、腹痛を訴えることはなかつた。中村医師が視診、触診等で得た所見は、右側胸部及び右大腿部に圧痛を認めたが、腹部は軟らかく、圧痛の存在は不明確であり、腹膜刺激症状等その他の腹部所見は認められなかつた。右側胸部呼吸音はやや減弱していた。血圧は一二九/五八ミリメートルHgと正常範囲であつた。右下腹部に擦過傷が存在し、右大腿部に硬結が認められた。疼痛によると思われる顔色不良が認められた。胸部、右肋骨部及び大腿骨部の単純エツクス線写真撮影を施行したところ、気胸及び肋骨や右大腿に骨折の所見は認められなかつたが、右第一腰椎横突起に骨折を疑わせる所見が認められた。

中村医師は、右各所見により、右側胸部痛及び呼吸苦は右側胸部打撲及び右第一腰椎横突起骨折が原因である可能性が高いと考え、打撲に対する処置として右側胸部全体を覆うようにゼラツプ湿布をし、痛みに対する処置として鎮痛剤のボルタレン坐薬を使用するとともに、容態に何か異変が起きた場合直ちに対処できるように輸液路を確保するためソリタT3の点滴を開始した。

右外来診療の際、約一時間の間、中村医師は哲也の状態を診ていたが、その間哲也の症状に何ら変化が認められなかつた。しかし、右側胸部打撲及び右第一腰椎横突起骨折にしては右側胸部痛が少し強いことが気になり、哲也を入院させて経過観察をすることとし、看護婦に対し、経過観察のため入院させる旨を伝えるとともに、処置指示表に記載して疼痛時や体温上昇時に対する処置や点滴の継続等を指示した。

(二) 哲也は、同日午後六時四五分ころ、二〇七号室に入室した。入室時、顔色・口唇色不良、血圧八〇/五〇ミリメートルHg、脈拍九〇、体温三六・六度であつた。ストレツチヤーからベツドへ移る際に右側胸部痛の増強が認められた。なお、右血圧の低下は、エツクス線写真撮影や病棟への移動、それによる右側胸部痛の増強及びボルタレン坐薬の使用等が原因で起きた一時的現象であると考えられる。

同日午後七時一五分ころ、担当看護婦の畠山エリ子(以下「畠山看護婦」という。)が哲也の右側胸部に触れてみても疼痛の増強はなく、腹部に固い感じもなく、その他の異常所見も認められなかつた。

同日午後七時四五分ころ、入院当初と比べて体の向きを変える回数が増えてきたが、血圧は一一二/五〇ミリメートルHgと正常値に復していた。哲也は、気分の不快及び口渇を訴えていたが、ポカリスエツトを飲んでおいしかつたと笑顔を見せる状態であつた。

同日午後七時五五分ころ、顔色及び口唇色の不良が改善されないため酸素吸入を開始した。

同日午後八時一五分ころ、脈拍数は正常で緊張(脈の強さ)も良好であり、血圧等の循環動態に特段の異常は認められなかつたが、右側胸部痛の訴えは継続し、寝返りを打つなどの体位変換も激しく、酸素吸入をしても顔色及び口唇色の不良が改善されなかつたので、同日午後八時二〇分ころ、畠山看護婦は、念のため右症状を中村医師に報告しようとドクターコールをしたが、連絡が取れなかつた。

同日午後八時三〇分ころ、右ドクターコールをした後、二〇七号室に戻つてみると、哲也はベツド上に座つたり寝たりと、今までになく体の動きが大きくなつてきて、時折「うつ」という呻き声も聞こえるようになり、同室の患者から苦情もあつたので、とりあえずナースステーシヨンから動線が一直線で観察のしやすい二〇六号室に転室させた。

同日午後八時四〇分ころ、哲也の状態が右のようであつたので、畠山看護婦は医師の指示に従つてソセゴン三〇ミリグラムを用意し、血圧を測定したところ、最高血圧が六〇ミリメートルHgと低かつたので、医師の診察が必要であると考え、午後八時五〇分ころ、中村医師に再度ドクターコールをしたところ、連絡が取れた。

(三) 同日午後九時ころ、中村医師は、同医師が診ることになつていた急患の患者の処置を他の医師に頼んだ後、すぐに哲也の許に駆けつけ、同人を診察した。その際、最高血圧は六〇から七〇ミリメートルHg台と低く、体の動きはますます激しく、顔色は蒼白だつた。

同日午後九時一〇分、点滴を差し換え中、突然心停止、呼吸停止となつた。即座に気管内挿管を行い、人工呼吸及び心マツサージを施行し、ボスミン、プロタノール、カルチコール及びメイロンを投与したところ、まもなく蘇生が得られ、自発呼吸の再開と瞳孔の対光反射も確認された。さらに改善させるため、ミオブロツクを投与して筋弛緩を行い、人工呼吸器を装着した。点滴ルートを三か所確保し、補液及び昇圧剤の投与を行い、濃厚赤血球、ヘスパンダーを投与した。最高血圧は六〇ミリメートルHg前後で推移した。

右蘇生処置を施行中、哲也に急激な腹部膨隆が出現したのを認めた。そのため、中村医師は、肝破裂等の腹部臓器損傷又は血管損傷の可能性を疑い、それを原因とする腹腔内出血があるものと考え、緊急に開腹手術をする必要があると判断した。

なお、右に至るまで、哲也は腹部痛を訴えることは一度もなかつた。

(四) 中村医師は、原告らに対し、腹部臓器損傷又は血管損傷による腹腔内出血と思われるので緊急に開腹手術をする必要がある旨を説明し、原告らの承諾を得る一方、輸血の手配、外科医、麻酔医等の手術従事者への連絡等緊急手術の準備を速やかに行い、同日午後一一時五〇分、執刀医中村医師、第一助手益川邦彦外科部長、第二助手森永聡一郎医師及び麻酔医清水功医師らにより手術が開始された。

上腹部正中切開により開腹すると、肝臓の右葉外側部の前区域から後区域にかけて挫滅している状態であり、前面から後面にかけて一〇数センチメートルにわたつて深く亀裂が入り、約一五〇〇ミリリツトルの出血が認められた。腎周囲に血腫が認められたので後腹膜を開けて検索したが、明らかな出血部位は認められなかつた。肝損傷部位を縫合し、オキシセルコツトン及びスポンゼル等で止血を試みたが、充分な止血を得られず、右肝動脈の決紮を行つたところ、出血は減少した。新鮮血輸血によつてほぼ止血されたことを確認した後、肝前面・下面にドレーンを挿入して閉腹し、翌二八日午前四時五二分、手術は終了した。

(五) 術後の哲也の状態は、術中に確認された高度の肝挫滅状態及び帰室後の極度の乏尿状態から、肝不全、急性腎不全の状態と考えられた。症状改善のため、メイロン二五〇ミリリツトルを投与し、人工呼吸器の酸素濃度及び呼吸回数を上げた。高カリウム血症に対応するため、グルコース・インスリン治療を施行するとともに、カリウムの入らない点滴に差し換えた。利尿剤(ラシツクス)及び昇圧剤(イノバン、ドブトレツクス)等を使用したが、尿量の増加はなく、次第に昇圧剤にも反応しなくなり、血圧低下、高カリウム血症による心室細動を起こしたので心マツサージを施行したが効果はなく、同日午前一二時五三分、死亡した。

2  哲也の死因

哲也は、平成二年一〇月二七日午後九時一〇分、出血性シヨツクによる心停止及び呼吸停止の状態となつたが、その後、心マツサージ及び人工呼吸等により心拍が再開し、自発呼吸が戻り、瞳孔の対光反応も認められたのであるから、直接の死因は、原告らが主張する出血性シヨツクではなく、肝不全、急性腎不全が直接の死因である。そして、その主な原因としては、出血性シヨツク等に起因する多臓器不全(特に急性腎不全)、交通事故に起因する重度の外傷性肝破裂及びそれに起因する肝機能障害並びに手術侵襲が考えられ、右各原因が複合的に影響して死の結果をもたらしたものと考えられる。

3  中村医師の無過失等

(一) 中村医師が、外来診療時に、肝破裂を積極的に疑わなかつたことについては、次の理由から過失ないし債務不履行はない。

肝が損傷した場合、その損傷に伴う出血及び漏出した胆汁が腹膜を刺激する結果、損傷の程度等により多少の遅速はあるにせよ、その後相当期間内に腹部に触診による所見として反跳痛(腹部を押して離した時に痛みがあること)や筋性防御(腹部が板のように固くなること)、自覚症状としての腹痛などのいわゆる腹膜刺激症状が現れてくるのが通常である。中村医師は、前記1(一)のとおり、腹部を触診して腹膜刺激症状があるか否かを確認したが、右腹膜刺激症状は認められず、哲也は、外来診療中一度も腹痛を訴えなかつた。また、外傷性肝破裂による出血がある程度以上に達すると、血圧が低下してくるのが通常である。しかし、外来診療中の血圧も疼痛があることを考慮するとほぼ正常範囲内を推移していたので、血圧の状況からも何らかの出血を推認することはできなかつた。

右のとおり、臓器損傷の疑いを生じさせる所見が存在せず、かつ、その存在しない状態が中村医師が直接哲也を約一時間経過観察していた間継続していたのであるから、外来診療時に、肝破裂を積極的に疑わなかつたことに過失ないし債務不履行はない。

(二) 中村医師が、哲也の外来診療時に、腹部単純エツクス線写真撮影、末梢血検査及び超音波検査(エコー)を行わなかつたことに過失ないし債務不履行はない。

臨床の実際において、右各検査を行う必要がある場合とは、肝破裂等の臓器損傷の存在をある程度以上具体的に疑わせる何らかの所見が存在する場合であるが、本件では、そのような疑いを生じさせる所見、特に腹部所見が認められなかつたのであるから、中村医師が右各検査を行わず、血圧、脈拍等のバイタルサインの測定や患者の全身状態をしばらく観察し、その状態の変化に応じて必要な検査をしていくという判断をしたとしても、そのことに過失ないし債務不履行はない。

(三) 中村医師が外来診療時に各所見をもとにして前記各処置を行つたことに過失ないし債務不履行はない。

前記1(一)のとおり、中村医師は、湿布、坐薬及び点滴の処置を行つたが、打撲部分の痛みを訴えている哲也に対する処置として妥当なものであつたことは明らかである。また、経過観察のため入院させ看護婦に経過の観察を行わせることとした点についても、中村医師が約一時間実際に哲也を診ていたこと、その間哲也の状態は何ら変化なく推移していたこと及び臓器損傷を具体的に疑わせる所見は全く認められなかつたことなどから、通常医師が行う行為として妥当なものであつた。

(四) 中村医師が哲也を経過観察のため入院させた際、観察し報告すべき事項を看護婦に特段指示しなかつたことしても、次の理由からそのことに過失ないし債務不履行はない。

看護婦に対し、経過観察のため患者を入院させる旨伝えれば、担当看護婦は、血圧、脈拍等のバイタルサインの測定、患者の全身状態の観察、患者の訴えの聴取等により経過観察を行うことになつている。本件における外来診療時の各所見等からすれば、哲也について経過観察事項に欠けているところはなく、また、担当看護婦は患者の状態に変化があり、医師に対しその変化を報告する必要があるときは、随時医師にその状態を報告し、必要があれば患者を直接診てもらうよう要請するという看護体制になつていた。実際、看護婦経験の長い畠山看護婦は、哲也の入院後バイタルサインを頻繁に測定し、全身状態を良く観察するなど十分な経過観察を行つていた。

(五) 入院後平成二年一〇月二七日午後八時五〇分ころ二度目のドクターコールまでの経過は、前記1(二)のとおりであり、哲也の状態が大きく変化したのは平成二年一〇月二七日午後八時三〇分ころであると考えられるところ、畠山看護婦は、右変化がみられるまでは、医師の指示に従つて、点滴の継続、血圧の測定、全身状態の観察、痛みや呼吸の変化の観察を頻繁にかつ適切に行つており、また、右変化が認められた後は速やかにドクターコールをするなど適切に対応している。さらに、畠山看護婦からドクターコールを受けた後の中村医師の診療行為は、前記1(三)ないし(五)のとおりであり、過失ないし債務不履行がないことは明らかである。

(六) 哲也の死亡の結果は、次の理由から医療側には回避不可能かもしくは著しく回避困難であつた。

哲也の死亡の主な原因は、前記2のとおり、出血性シヨツク等に起因する多臓器不全、肝損傷及びそれに起因する肝機能障害並びに手術侵襲であると考えられる。

出血性シヨツク等に起因する多臓器不全を回避できたか否かについては次のとおりである。すなわち、本件肝損傷は、日本外傷研究会や真喜家の肝損傷形態分類によれば、いずれも死亡率は約五〇パーセントとされている最も重度のⅢ型に該当する極めて重度のものでありながら、受傷後約三時間経過したころまで血圧がほぼ正常範囲内に維持されており、腹部症状等で目立つた症状が発現しなかつた。そのため、いわゆるデイレイドラプチヤー(遅発性の破裂)、すなわち、肝臓自体に損傷があつても、肝臓の外側の皮膜が保たれていることにより肝損傷に引き続いて血液や胆汁の漏出が腹腔内に流出せず、相当期間後にこの皮膜が破れて腹腔内への出血や胆汁の漏出が起こるという稀な機序と類似した何らかの極めて特殊かつ稀な機序が働いたものと考えられる。右機序が働いている間は肝損傷を疑うことはより困難となる上、その機序が一度崩れると、重度の肝損傷の場合、短期間のうちに極めて多量の出血を余儀なくされ、急速に出血性シヨツク等の状態に陥り、救命は極めて困難となる。したがつて、本件において、医療側においてかかる事態の発生を予見し、回避することは不可能か又は著しく困難であつた。

肝損傷及びそれに起因する肝機能障害を回避できたか否かについては、本件交通事故を原因として生じたものであるから、医療側が回避することは不可能であつたことは明らかである。

手術侵襲を回避できたか否かについては、本件のように重度の肝損傷の治療としては、損傷部分等を縫合し止血するために、長時間を要する手術を要することは避けられず、手術による侵襲は避けられないものである。

仮に、より早期に肝破裂が発見できたとしても、本件のような重度の肝損傷の場合、手術等による止血は困難であり、術後の合併症により不幸な転帰となる可能性が高く、医療側としてはこれを回避し得た蓋然性はない。

五  被告清水の抗弁

1  過失相殺

本件交通事故現場は、車道幅員約一二メートルの国道二五五線と、車道幅員約六メートルの神奈川県道小田原松田線が交わる交差点である。

被告清水は、加害車を運転し国道二五五線を小田原方面から松田町方面へ時速約四〇キロメートルで進行し、右交差点を左折して県道を西大井方面へ進行するため、右交差点の手前約三六・四メートルの地点で進行方向の信号機が青色を表示していることを確認し、方向指示器により左折の合図をしながら時速一〇キロメートル以下まで減速し、かつ、バツクミラー及び左側サイドミラーで安全を確認して右交差点に進入した。右交差点に入り再度左測サイドミラーで確認したが、二輪車は映つていなかつたので、更にブレーキをかけながらゆつくりハンドルを左側に切り始めたところ、最高速度の時速五〇キロメートルを超える時速六〇キロメートル以上の速度で進行してきた被害車が、加害車の左前輪より前部の左クリアランスランプ付近に接触した。そのため、被告清水は、強くブレーキをかけて、ほとんどその場に停止したが、被害車は、相当の速度で加害車の左側を通過し、右交差点の厚木方面左側にある橋の欄干に激突して横転した。なお、被害車は、ヤマハ製FZR―R(排気量四〇〇cc)の自動二輪車である。

以上によれば、本件交通事故の発生については哲也にも過失がある。すなわち、左折しようとする車両が道路の左側端に寄ろうとして方向指示器による合図をした場合においては、その後方にある車両は、その速度又は方向を急に変更しなければならないこととなる場合を除き、当該合図をした車両の進路の変更を妨げてはならない(道路交通法三二条三項)ところ、本件において哲也は、被告清水が左折の合図を開始した後、減速し又は道路の中央寄りに進路を変更することが十分可能であつたにもかかわらず、前方で左折の合図をしながら交差点に進入した加害車を見落とし、又は、いわゆる「抜け駆け」的な進行をして加害車の左折を妨げたものである。さらに、前記のとおり、哲也は最高速度を超える速度で進行していた。

右哲也の過失の程度は大きく、少なくとも五割の過失があるというべきであり、被告清水は右割合による過失相殺を主張する。

2  損害の填補

哲也が入院した際の治療費は総額二〇三万八一三〇円であるところ、過失相殺は総損害額を前提にして行うべきであるから、右治療費を加算して算定すべきである。

そして、原告らは、前記のとおり哲也の死亡について自賠責保険金二五〇〇万円の支払を受けた他に、訴外同和火災海上保険株式会社から右治療費のうち二〇三万五〇四〇円の支払を受けている。したがつて、原告らが損害の填補として支払を受けた額は、合計二七〇三万五〇四〇円である。

六  被告清水の抗弁に対する認否

1  抗弁1(過失相殺)に対し

哲也が時速六〇キロメートル以上の速度で進行していたことは否認し、原告らの過失相殺の主張は争う。

交差点を左折するときは、後方から進行してくる車両特に自動二輪車の有無を十分に確認し、あらかじめ交差点の手前からできる限り道路の左側端に寄るべきであり、仮にできる限り道路の左側端に寄らなかつた場合は、左折する前に一時停止して左側を直進する車両のないことを確認してから左折するべきであるにもかかわらず、被告清水は、交差点の手前で道路の左側端に寄らず、道路の左側端から約二メートル空けて中央寄りを進行し、左折の合図をしたのみで後方及び左側方の安全確認を怠り、一時停止することなく左折を開始した。したがつて、被告清水は、道路左側を大きく空けつつ安全を確認することなく漫然と左折を開始したもので、その過失の程度は極めて大きく、仮に哲也に過失が認められるとしても、その割合は一割を超えないというべきである。

2  抗弁2(損害の填補)に対し

原告らが訴外同和火災海上保険株式会社から治療費総額二〇三万八一三〇円のうち二〇三万五〇四〇円の支払を受けたことは、知らない。

七  被告神奈川県の抗弁(過失相殺)

哲也は、本件交通事故において、スピード違反及び前方不注視等の過失があり、右過失が哲也の死亡の結果に大きく寄与していることは明らかであるから、仮に被告神奈川県に責任が認められるとしても、損害賠償の額を定めるについては右哲也の過失は斟酌されるべきである。

八  被告神奈川県の抗弁に対する認否

争う。仮に哲也に本件交通事故について過失が認められるとしても、被告神奈川県との関係においては、本件交通事故による受傷を前提にして生じた法律関係である以上、右過失は斟酌すべきではない。

第三証拠

記録中の書証目録・証人等目録のとおりである。

理由

一  本件交通事故の発生(請求原因1)について

原告らと被告清水との間では、請求原因1(一)ないし(四)の事実は当事者間に争いがなく、同(五)(事故態様)の事実は、成立に争いのない丙第二号証、第三号証、第五ないし第一一号証、第一四号証、弁論の全趣旨により成立を認める丙第一九号証及び添付の写真が被害車を撮影したものであることは当事者間に争いがなく、その余の部分は弁論の全趣旨により成立を認める丙第一一〇号証により、これを認めることができる。

原告らと被告神奈川県の間では、請求原因1の各事実は、平成二年一〇月二七日午後五時二〇分ころ哲也が自動二輪車を運転中被告清水が運転する普通乗用自動車と衝突して転倒したことは当事者間に争いがなく、その余の事実は、前記各証拠により、これを認めることができる。

なお、事故態様の詳細は、後記七1で認定するとおりである。

二  哲也の受傷及び診療経過について

哲也が本件交通事故によつて外傷性肝破裂等の傷害を負つた後、救急車で神奈川県立足柄上病院に搬入されたこと、右病院において勤務医であつた中村医師の診断・治療を受け入院したが平成二年一〇月二八日午後〇時五三分死亡したことは、当事者間に争いがなく、中村医師が哲也に対しエツクス線写真撮影を施行したところ第一腰椎右横突起骨折を疑わせる所見が認められたこと、哲也に対し腹部エツクス線写真撮影、腹部超音波検査(エコー)及び末梢血検査を施行しなかつたこと、哲也を経過観察のため入院させたことは、原告らと被告神奈川県との間では争いがない。右当事者間に争いのない事実に、成立に争いのない乙第一号証の一ないし四、第二号証の一ないし一二、第三号証の一ないし六、第四号証、丙第一二号証、第一三号証、第一五号証及び第一六号証、証人中村俊一郎の証言により成立を認める乙第五号証、証人畠山エリ子の証言により成立を認める乙第六ないし第八号証、証人中村俊一郎及び同畠山エリ子の各証言、原告鈴木陽子本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

1  本件交通事故により外傷性肝破裂等の傷害を負つた哲也は、平成二年一〇月二七日午後五時三五分ころ、救急車で被告神奈川県が経営する神奈川県立足柄上病院に搬入された。当日は土曜日の午後であり、右病院の当直体制は、外科系の当直医師が一名、内科系が一名、産婦人科系が一名であつたところ、外科系の当直をしていた勤務医の中村医師が哲也の診察にあたつた。

中村医師は、看護婦から、患者は平成二年一〇月二七日午後五時二〇分ころ自動二輪車を走行中、普通乗用自動車と接触して転倒し全身打撲の傷害を受けた者である旨を聞いていた。

中村医師が最初に問診を行つた際、哲也は、右側胸部及び右大腿部を打撲した旨を告げ、右側胸部痛、右大腿部痛及び呼吸苦を訴えていたが、腹痛は訴えていなかつた。次に視診、触診等の診察を行つたところ、右側胸部に圧痛を、右下腹部に擦過傷を、右大腿部に圧痛及び硬結をそれぞれ認めた。なお、右側胸部及び右大腿部には、押さなくても痛みを感じる自発痛も認められた。腹部は軟らかく、圧痛の存在は不明確であり、腹膜刺激症状等その他の腹部所見は認められなかつた。右下腹部の擦過傷の他に外傷は認められなかつた。右側胸部を打撲し、やや息苦しいと訴えていたので、聴診したところ、右側胸部呼吸音はやや減弱していた。血圧は、搬入直後の午後五時三五分ころは最高血圧一二九・最低血圧六三ミリメートルHg、午後五時四五分ころは最高血圧一〇一・最低血圧四〇ミリメートルHg、午後六時五分ころは最高血圧一二九・最低血圧五八ミリメートルHgであり、いずれもほぼ正常範囲で異常は認められなかつたが、疼痛によると思われる顔色不良が認められた。これらにより、中村医師は、右肋骨骨折、右気胸及び右大腿骨骨折等の可能性があると考え、胸部、右肋骨部及び右大腿骨部の単純エツクス線写真撮影を施行した。その結果、気胸及び肋骨や右大腿骨に骨折の所見は認められなかつたが、右第一腰椎横突起に骨折を疑わせる所見が認められた。

中村医師は、右各所見により、右側胸部打撲骨折、右第一腰椎横突起骨折、右大腿部打撲及び右下腹部擦過傷を認め、右側胸部痛及び呼吸苦は右側胸部打撲及び右第一腰椎横突起骨折が原因である可能性が高いと考えた。打撲に対する処置として右側胸部全体を覆うようにゼラツプ湿布をし、痛みに対する処置として鎮痛剤のボルタレン坐薬を使用するとともに、容態に何か異変が起きたとき直ちに対処できるように輸液路を確保するためソリタT3の点滴を開始した。

午後六時三〇分過ぎまでの約一時間、中村医師は哲也の状態を診ていたが、鎮痛剤の投与等により顔色が良くなつてきたほかは、特に症状の変化は認められなかつた。また、その間、痛みのために体を激しく動かしたり、同一体位が取れない程の激しい痛みを訴えたりすることはなかつた。

しかし、右側胸部打撲及び右第一腰椎横突起骨折にしては右側胸部痛が少し強いことが気にかかり、入院させて経過観察を行うこととした。その際、腹部所見が認められなかつたことなどから、肝破裂等の腹腔内臓器損傷を積極的に疑うことはしなかつた。外来担当の看護婦に対し、経過観察のため入院させる旨を伝えるとともに、処置指示表に記載して指示を与えた。具体的には、ソリタT3の点滴の投与を継続すること、ベツド上で安静を保つこと、翌朝の食事及びトイレ・洗面が可能であること、並びに疼痛時や体温上昇時に鎮痛剤・解熱剤等を投与することなどを記載したが、経過観察の際の指示事項には全身状態の観察ないし血圧・脈拍等のバイタルサインの測定も当然含まれるものであり、担当看護婦は、患者の状態に変化が現れ医師に報告する必要が生じたときは、随時医師にその状態を報告し、必要があれば患者を直接診てもらうよう要請するという看護体制になつていた。

また、中村医師は、本件交通事故を聞きつけて来院していた原告陽子に対し、レントゲン写真を示しながら哲也の症状を説明し、命に別状はなく明日退院できるかもしれない旨を伝えた。

哲也が入院した後、中村医師は、他の救急外来患者二名の診療を行つたり夕食を採つたりしていた。

2  哲也は、午後六時四五分ころ、二〇七号室に入室した。病棟二〇七号室担当の畠山看護婦が、他の二名の病棟担当看護婦らと協力しながら哲也の看護にあたることになつた。畠山看護婦は、外来担当の看護婦から、看護記録を読み上げる形で申し送りを受け、前記処置指示表と外来入院診療録等を受け取つた。入室時、ストレツチャーからベツドへ移る際、右側胸部痛の増強が認められた。顔色・口唇色は不良で、脈拍は九〇、体温は三六・六度であつた。血圧は、最高血圧八〇・最低血圧五〇ミリメートルHgと低い値であつたが、畠山看護婦は、これはボルタレン坐薬の使用等が原因で起きた一時的な血圧下降ではないかと考え、しばらく様子をみることにした。入院後間もなくして原告陽子が病室を訪れたが、その際、哲也は痛みに堪えようとしてしばしば寝返りを打つ状態であつた。午後七時一五分ころ、畠山看護婦が哲也に対し疼痛の箇所を尋ねたところ、哲也は右側胸部を示したので、右側胸部に触れてみたが、疼痛の増強はなかつた。腹部に触れたところ固い感じはなく、その他の腹部症状も認められなかつた。午後七時四五分ころ、疼痛に苦しんで体の向きを変える回数が増えてきたが、血圧は最高血圧一一二・最低血圧五〇ミリメートルHgと正常値に復していた。哲也は、気分の不快及び口渇を訴え、原告陽子から与えられた清涼飲料水を飲んだ。午後七時五五分ころ、顔色及び口唇色の不良が改善されず、右側胸部痛が持続していたため酸素吸入を開始した。午後八時一五分ころ、脈拍数は正常で緊張(脈の強さ)も良好であり、血圧等の循環動態に特段の異常は認められなかつたが、右側胸部痛の訴えは持続し、疼痛のため寝返りを打つなどの体位変換も激しく、酸素吸入をしても顔色及び口唇色の不良が改善されなかつた。そのため、午後八時二〇分ころ、畠山看護婦は、念のため右症状を中村医師に報告しようと考えドクターコールをした。しかし、中村医師は他の救急外来患者に対する診療中であり、理由は不明であるが連絡が取れなかつた。

午後八時三〇分ころ、右ドクターコールをした後、二〇七号室に戻つてみると、哲也はベツド上に座つたり寝たりと、今までになく体の動きが大きくなつてきて、時折「うつ」という呻き声も聞こえるようになり、同室の患者からうるさいとの苦情もあつたので、とりあえずナースステーシヨンから動線が一直線で観察のしやすい二〇六号室に転室させた。

午後八時四〇分ころ、哲也の状態が右のとおりであつたので、畠山看護婦は、医師の指示に従つてソセゴン(鎮痛剤)三〇ミリグラムを用意し、血圧を測定したところ、最高血圧六〇・最低血圧三〇ミリメートルHgと低かつた。そのため、医師の診察が必要であると考え、中村医師に再度ドクターコールをしたところ、午後八時五〇分ころ、連絡が取れ、哲也の血圧が下がり不穏状態になつているのですぐ来て欲しい旨を伝えた。

なお、右に至るまで、哲也は腹部痛を訴えることは一度もなかつた。

3  中村医師は、畠山看護婦から前記連絡を受けたため、同医師が診ることになつていた他の救急外来患者の処置を他の医師に依頼した後すぐに哲也の許に駆けつけ、二〇六号室に着いたのは、同日午後九時ころであつた。その際、哲也は、不穏状態、すなわち、ベツドの上で膝立ちをして点滴の針を自分で抜去し胸をはだけて暴れ、意味不明のことを叫んでいる状態であつた。血圧は最高血圧が六〇から七〇ミリメートルHg台と低く、顔色は蒼白だつた。まず輸液が必要であると考え、点滴ルートを取り直すことを図つた。

午後九時一〇分、点滴を差し換え中、突然呼吸が止まり静かになつた。右鼠蹊部で脈拍が振れなくなり、心停止に極めて近い状態でもあつた。即座に気道を確保するため気管内挿管を行い、心マツサージを施行し、ボスミン、プロタノール、カルチコール及びメイロンを投与したところ、間もなく心臓は動き出し、蘇生は一応成功した。

右蘇生術を施行中、哲也に急激な腹部膨隆が出現したのを認めた。右腹部膨隆と血圧の低下等から、中村医師は、肝破裂又は腹腔内の血管損傷の可能性を疑い、それを原因とする腹腔内出血があるものと考え、緊急に開腹手術をする必要があると判断した。そのため、中村医師は、午後九時三〇分過ぎころから、輸血の手配・準備、院外にいた他の外科医・麻酔医や当直婦長への連絡等緊急手術の準備を速やかに開始し、また、原告らに対し、腹部臓器損傷又は血管損傷による腹腔内出血と思われるので緊急に開腹手術をする必要がある旨を説明し、手術を施行するについて原告らの承諾を得た。

前記気管内挿管及び心マツサージ等により蘇生が一応成功した後、哲也を二〇六号室から集中管理が可能な二〇一号室へ移し、人工呼吸器を装着した。最高血圧が六〇ミリメートルHg前後と低い値で推移したので、昇圧剤の投与を行い、さらに、手術及び輸血に備えて点滴ルートを三か所確保し、補液を行つた。午後一〇時一四分、自発呼吸の再開と瞳孔の対光反射も確認された。午後一〇時一七分、自発呼吸を抑え人工呼吸に合わせるため、ミオブロツク(筋弛緩剤)を投与した。午後一〇時二五分ころ、濃厚赤血球及びヘスパンダーの投与、すなわち、院内にあつた血液の輸血を行つた。午後一〇時三七分、膀胱内にバルン(カテーテル)を挿入して尿の管理を行つた。午後一〇時四〇分、手術室へ入室し、午後一一時三〇分には、院外から届いた輸血が開始された。

4  午後一一時五〇分、執刀医中村医師、第一助手益川邦彦外科部長、第二助手森永聡一郎医師及び麻酔医清水功医師らにより手術が開始された。上腹部正中切開により開腹すると、相当量の出血が貯留しており、その血液を体外へ排出し腹腔内を検視したところ、肝臓の右葉外側部の前区域から後区域にかけて挫滅し、前面から後面にかけて一〇数センチメートルにわたつて深く亀裂が入つている状態であつた。肝損傷以外に腎周囲に血腫が認められたので後腹膜を開けて検索したが、明らかな出血部位は認められなかつた。肝損傷から湧きだすように相当量の出血を認めたので、肝損傷部位を縫合し、オキシセルコツトン及びスポンゼル等で圧迫止血を試みたが、充分な止血を得られなかつた。そこで、右肝動脈の決紮をし、さらに圧迫止血を行つたところ、出血は減少した。新鮮血輸血によつてほぼ止血されたことを確認した後、肝前面・下面にドレーンを挿入して閉腹し、翌二八日午前四時五二分、手術は終了した。

開腹時に既に腹腔内に貯留していた血液を含めた手術終了までの総出血量は、六〇〇〇ミリリツトル強であつた。術中確認された肝損傷は、日本外傷研究会や真喜家の肝損傷形態分類によれば、いずれも最も重度のⅢ型に相当し、死亡率が五〇パーセント以上とされているものであつた。

5  手術終了後午前五時二〇分、哲也は病室に戻つた。術後の哲也の状態は、術中に確認された高度の肝挫滅状態及び帰室後の極度の乏尿状態から、肝不全、急性腎不全の状態と考えられた。症状改善のため、メイロン二五〇ミリリツトルを投与し、人工呼吸器の酸素濃度及び呼吸回数を上げた。高カリウム血症に対応するため、グルコース・インスリン治療を施行するとともに、カリウムの入らない点滴に差し換えた。午前七時二〇分ころから、血圧は次第に下降し、ラシツクス(利尿剤)及びイノバン、ドブトレツクス(昇圧剤)等を使用したが、尿量の増加はなく、昇圧剤にも反応しなくなり、血圧低下及び高カリウム血症による心室細動を起こしたので心マツサージを施行したが効果はなく、同日午後〇時五三分、死亡した。

以上の事実が認められる。この認定を左右するに足りる証拠はない。

三  哲也の死亡原因について

中村医師自身、死亡診断書(乙第一号証の五・六)に、出血性シヨツクが直接死因であり、その原因は外傷性肝破裂であると記載しているが、右二で認定した事実によれば、哲也は、平成二年一〇月二七日午後九時一〇分ころ、出血性シヨツクによる心停止及び呼吸停止の状態となつた後、心マツサージ及び人工呼吸等により心拍が再開し、自発呼吸が戻り、瞳孔の対光反応も認められたのであるから、厳密にいえば、直接死因は出血性シヨツクではなく、肝不全及び急性腎不全が直接の死因であると考えられる。そして、その主な原因として考えられるのは、第一に出血性シヨツク等に起因する急性腎不全を主とする多臓器不全、第二に交通事故に起因する重度の外傷性肝破裂及びそれに起因する肝機能障害、第三に手術による侵襲であり、これらの原因が複合的に影響して死の結果をもたらしたものと認められる。

四  被告清水の責任(請求原因3)について

被告清水が加害車を所有し自己のために運行の用に供していた者であることは当事者間に争いがないから、同被告は、自賠法三条に基づき、本件交通事故により発生した損害を賠償する責任がある。

なお、被告清水は、本件交通事故と哲也の死亡との間の相当因果関係を争うけれども、後記五で認定するとおり、哲也を診療した中村医師に診療行為上の過失ないし義務違反は認められないから、右相当因果関係が存することは明らかである。

五  被告神奈川県の責任について(請求原因4)について

哲也が被告神奈川県との間で、同被告において、哲也が本件交通事故により負つた傷害について、現代医学において一般的に認められた水準の臨床医学上の知識及び技術を駆使して可及的速やかに右傷害の部位・内容を適確に診断したうえ適宜の治療行為を行う旨の診療契約を締結したこと、及び中村医師が神奈川県立足柄上病院で勤務する医師であつたことは、原告らと被告神奈川県との間において争いがない。

そこで、以下、中村医師の前記診療行為に原告ら主張の過失ないし診療契約上の債務不履行があつたといえるか否かについて判断する。

1  交通事故により受傷した救急外来患者の診察にあたつては、外傷や骨折等に目を奪われて、腹腔内腺器損傷及びこれに起因する腹腔内出血を看過することがあつてはならないし、腹腔内臓器損傷は、創傷等とは異なつて外見から明らかに認められるものではなく、その初期症状において必ずしも著明に現れるとは限らないのであるから、腹腔内臓器損傷を疑わせるような所見が初診時に乏しくても安易にその可能性を否定すべきでないこともいうまでもない。しかしながら、一般的に、医師が患者を診察するにあたつては、まず患者に対する問診に始まつて、触診・視診等の診察を行い、それらによる具体的な所見に基づいていかなる傷病であるかを診断し、又はいかなる傷病の疑いがあるかを診断した後、必要であると考えられる諸検査を施行して診療を進めながら適宜治療行為を行うのであつて、初診時から考え得るすべての傷病の有無を確認するために諸検査を施行しなければならないとまではいえないこともまた明らかである。交通事故により受傷した救急外来患者に対する診療であつても、常に必ず腹腔内臓器損傷を疑つて諸検査を施行し、腹腔内臓器損傷の有無を確認しなければならないわけではなく、まず問診、触診、視診によつて具体的な所見を得ることが最も重要であつて、右によつて得た具体的な所見に基づいて必要な諸検査を施行すれば足りるというべきである。

2  これを本件についてみるに、哲也が本件交通事故により重度の外傷性肝破裂の傷害を負つていたことは、前記のとおり明らかであるところ、中村医師は、哲也が自動二輪車を走行中普通乗用自動車と接触して転倒し傷害を受けて搬入された救急外来患者である旨を聞き及んではいたものの、初診時に、積極的に外傷性肝破裂等の腹腔内臓器損傷を疑うことをせず、特に命に別状はないものと判断し、不穏状態に陥るまで腹腔内臓器損傷を確認するための諸検査を行わず、哲也の外傷性肝破裂に対する治療を施さなかつたものであるが、もし仮に、早期に腹部単純エツクス線写真撮影、末梢血検査及び超音波検査(エコー)を施行していれば、外傷性肝破裂を発見できた可能性は高いと考えられるところであり、本件医療機関において右各検査を施行することは容易なことでもあつた。

そこで、初診時に、哲也の外傷性肝破裂を積極的に疑わなかつたことに過失ないし診療契約上の注意義務違反が認められるか否かについて検討する。

前掲乙第四号証、成立に争いのない甲第四号証及び前掲証人中村俊一郎の証言によれば、肝損傷がある場合、腹部症状として腹膜刺激症状が発現し、また、外傷性肝破裂による出血がある程度以上に達すると、血圧が低下してくるのが通常であることが認められる。とくに重症度の高い外傷性肝破裂の場合、腹膜刺激症状は、損傷時から一時間内に発現するのが通常である。腹膜刺激症状は、肝損傷に伴う出血及び胆汁の流出が腹膜を刺激して症状を出すものであるが、具体的には、自覚症状として腹痛を訴え、腹部が板のように硬くなる板状硬、腹部を押した際に痛みを感じる圧痛、腹部を押した後放す際に痛みを感じる反跳痛が現れるものである。しかしながら、本件において、初診時の約一時間の間、哲也に腹膜刺激症状は全く現れず、血圧もほぼ正常範囲内であつた。なお、入院直後の血圧は、最高血圧八〇・最低血圧五〇ミリメートルHgと低い値であつたが、これは、エツクス線写真撮影や病棟への移動、それによる右側胸部痛の増強及びボルタレン坐薬の使用等が原因で起きた一時的現象であつたと考えられる。したがつて、外傷性肝破裂等の腹腔内臓器損傷の疑いを生じさせる具体的な所見は存在しなかつたといわざるを得ない。

原告らは、病院へ搬送された時から哲也が訴えていた疼痛は、体動痛というよりむしろ自発痛であり、かつ、激しい体動を繰り返す程の痛みであつたのであるから、腹腔内臓器損傷を疑うべきであつた旨主張するが、初診時の約一時間の間、痛みのために体を激しく動かしたり、同一体位が取れない程の激しい痛みを訴えたりすることはなかつたのであるから、たとえ自発痛が認められたとしても、そのことから単なる打撲痛ではなく腹腔内臓器損傷を原因とする疼痛ではないかと疑うべき注意義務があつたということはできない。また、原告らは、エツクス線写真撮影によつて第一腰椎右横突起骨折を確認し、哲也の身体の前面部にのみ各種打撲症状を認めたのであるから、本件交通事故によつて哲也の腹部に強い外力が加えられたことは容易に推認できたはずである旨主張するが、右の状況から強い外力が加えられたことは容易に推認できるとしても、身体の前面部でしかも腹部に外力が加えられたものと直ちに推認することはできないというべきである。

以上によれば、中村医師が初診時に外傷性肝破裂等の腹腔内臓器損傷の疑いを抱かなかつたことは、やむを得ないことであつたといわざるを得ず、右の点に過失ないし注意義務違反を認めることはできない。したがつて、右疑いを抱かなかつた以上、腹腔内臓器損傷を確認するための諸検査を行わなかつたことにも過失ないし注意義務違反を認めることはできない。

3  次に、原告らは、中村医師は、哲也の入院の際、看護婦に対して観察し報告すべき事項を指示することを怠り、また、入院後、適切な診療を怠つて不穏状態に陥るまで哲也を放置した点に過失ないし注意義務違反があつた旨主張するが、中村医師は必要事項を具体的に処置指示表に記載して看護婦に対する指示を行つていること、経過観察のため患者を入院させる旨伝えれば、担当看護婦は、血圧、脈拍等のバイタルサインの測定、患者の全身状態の観察、患者の訴えの聴取等により経過観察を行うことになつていること、担当看護婦は、患者の状態に変化が現れ医師に報告する必要が生じたときは、随時医師にその状態を報告し、必要があれば患者を直接診てもらうよう要請するという看護体制になつていること、当日は土曜日夕方の当直体制であつて当直医の限られた人数で他の救急外来患者に対する診察も必要であつたこと等の事情に照らすならば、原告ら主張の右過失ないし注意義務違反は、にわかにこれを肯認することができない。

4  したがつて、中村医師の診療行為に原告ら主張の過失ないし診療契約上の注意義務違反は認められないと解するのが相当である。

なお、本件交通事故によつて被つた肝破裂は、死亡率が五〇パーセント以上とされている最も重度の肝損傷に相当するにもかかわらず、受傷後約三時間経過するまで腹膜刺激症状が発現しなかつたことに鑑みると、いわゆるデイレイドラプチヤー(遅発性の破裂)、すなわち、肝臓自体に損傷があつても、肝臓の外側の皮膜が保たれていることにより肝損傷に引き続いて血液や胆汁の漏出が腹腔内に流出せず、相当期間後にこの皮膜が破れて腹腔内への出血や胆汁の漏出が起こるという稀な機序と類似した何らかの極めて特殊かつ稀な機序が働いたものと考えるのが相当である。そして、右機序が働いていた間は肝破裂を疑うことは非常に困難であつた上、その機序が一度崩れた後は、短期間のうちに極めて多量の出血がみられ、急速に出血性シヨツク等の状態に陥つたものと考えるのが相当であつて、現代のいわゆる臨床医学上の実践における医療水準に従つた診療行為によつては、哲也の死亡という不幸な結果を回避することは不可能か又は極めて困難であつたと思われる。

六  損害(請求原因5)について

1  哲也に生じた損害 五五五〇万七二七七円

(一)  逸失利益 三九五〇万七二七七円

成立に争いのない甲第一号証の一・二、丙第一二号証、原告鈴木陽子本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、哲也は死亡時一六歳で、日本大学三島高等学校一年に在学中であり、本件交通事故により死亡しなければ、一八歳から六七歳までの四九年間、平成元年賃金センサス産業計企業規模計男子労働者学歴計による年収額四七九万五三〇〇円の収入を得ることができたものと推認できるので、死亡による逸失利益は、生活費控除率を五〇パーセント、中間利息の控除をライプニツツ式により算定すると、三九五〇万七二七七円となる。

(二)  慰謝料 一六〇〇万円

本件に現れた諸般の事情を総合すると、死亡によつて被つた哲也本人の精神的苦痛に対する慰謝料は、一六〇〇万円をもつて相当と認める。

2  原告らに生じた損害 一六〇万円(原告ら各自)

(一)  慰謝料 一〇〇万円(原告ら各自)

本件に現れた諸般の事情を総合すると、哲也の死亡によつて被つた近親者である原告らの精神的苦痛に対する慰謝料は、原告ら各自一〇〇万円が相当である。

(二)  葬儀費用 六〇万円(原告ら各自)

哲也の死亡に伴つて原告らが葬儀費用の出捐を余儀なくされたであろうことは明らかであり、本件交通事故と相当因果関係にある葬儀費用は、原告ら主張の各自六〇万円をもつて相当と認める。

3  相続

前掲丙第一二号証及び原告鈴木陽子本人尋問の結果によれば、原告敏男は哲也の父、原告陽子は哲也の母であり、原告らは哲也の死亡により同人の右1の損害賠償請求権を各二分の一の割合で相続したことが認められる。

七  過失相殺(被告清水の抗弁1)について

1  前掲丙第二号証、第三号証、第五ないし第一一号証、第一四号証、第一九号証及び第二〇号証によれば、次の事実を認めることができる。

本件事故現場は、国道二五五線と神奈川県道小田原松田線が交わる交差点で、いずれの道路からの進入についても信号機による交通整理が行われていた。国道は、歩車道の区別がある直線道路で、車道両側に歩道が設けられており、車道は、小田原方面から松田町方面に向けて、交差点付近で直進左折車線と右折車線に分かれ、全体の幅員一一メートルのうち直進左折車線の幅員は四メートルであり、最高速度は時速五〇キロメートルと指定されている。県道は、片側一車線で、交差点から西大井方面に向けて歩車道の区別はなく、全体の幅員七・四メートルの道路である。

被告清水は、加害車(排気量約二〇〇〇cc、長さ四・六七メートル、幅一・六九メートルのトヨタソアラ二ドアクーペ)を運転し国道二五五線を小田原方面から松田町方面へ時速約四五キロメートルで進行していた。県道と交差する前記交差点を西大井方面へ左折するため、交差点にさしかかつたところ、対面信号機が青色を表示していたことを確認し、交差点の手前約三六メートルの地点で方向指示器により左折の合図を開始して減速したが、道路の左側に寄ることなくそのまま直進左折車線の中央を進行して交差点に進入した。交差点に入る際、更にブレーキをかけて時速約一五キロメートルまで減速し、左側サイドミラーを見たところ左後方から進行してくる車両は映つていなかつたので、ゆつくりハンドルを左側に切り始めた。その瞬間、加害車の左後方から時速約六〇キロメートルで進行してきた被害車(排気量四〇〇ccのヤマハ製FZR―R)の前部又は右側部が、加害車の左側前部にある左クリアランスランプ及び左フロントフエンダー等に接触した。哲也は、右接触後、急制動の措置をとつたが約二〇メートル先前方斜め左側にある交差点内のガードレール(橋の欄干)に被害車とともに衝突して転倒した。

以上のとおり認められる。この認定を左右するに足りる証拠はない。

2  自動車を運転する者は、道路を左折するときは、あらかじめ交差点の手前からできる限り道路の左側端に寄り、できるかぎり道路の左側端に沿つて進行し、かつ、左後方の安全を確認すべき注意義務があるところ、右1で認定した事実によれば、被告清水は、右の義務を怠り、道路の左側に寄ることなく車線の中央を進行し、かつ、左後方の安全を十分確認しないまま左折を開始した過失があることは明らかである。しかしながら、同被告は、交差点の手前約三六メートルの地点で方向指示器により左折の合図を開始して減速していたのであるから、哲也が加害車との衝突を避けるための措置を取ることは十分可能であつたにもかかわらず、哲也は加害車が左折の合図をしていたことを見落としたか又は加害車の左側を追い抜くことができるものと安易に考えて、制限速度を超える時速約六〇キロメートルという高速度でその左側を通過しようとしたものというべきであり、本件交通事故が発生したについては哲也にも過失があつたものと認めるのが相当である。そして、その過失割合は被告清水が七〇パーセント、哲也が三〇パーセントと認めるのが相当である。

八  損害の填補(被告清水の抗弁2)について

原告らが哲也の死亡により自賠責保険金二五〇〇万円の支払を受けたことは、原告らの自認するところである。そして、弁論の全趣旨により成立を認める丙第一七号証及び第一八号証の一・二及によれば、神奈川県立足柄上病院での治療費は二〇三万八一三〇円であり、同和火災海上保険株式会社は保険金として右治療費の内金二〇三万五〇四〇円を支払つたことが認められるので、結局、既払額は合計二七〇三万五〇四〇円となる。

九  原告らの損害額について

1  過失相殺後の損害額 二一二六万八九二円(原告ら各自)

原告らは、本件訴訟において前記治療費を請求していないが、過失相殺をするにあたつては、総損害額を前提に算定すべきであるから、右治療費を加算するのが相当である。哲也に生じた総損害は、前記六1の五五五〇万七二七七円と治療費二〇三万八一三〇円との合計五七五四万五四〇七円であるから、原告ら各自が相続した債権額は、右の二分の一である二八七七万二七〇三円(円未満、切捨て)となる。そして、右原告ら各自が相続した債権額と原告ら各自に生じた損害額一六〇万円との合計は三〇三七万二七〇三円であり、右額から過失割合の三〇パーセント相当額を減じると、二一二六万八九二円(円未満、切捨て)となる。

2  既払額控除後の損害 七七四万三三七二円(原告ら各自)

前記八の既払額二七〇三万五〇四〇円について、原告ら各自二分の一の割合の相続分に応じてそれぞれ一三五一万七五二〇円を控除するのが相当である。そこで、右1の過失相殺後の原告ら各自の損害額二一二六万八九二円から右一三五一万七五二〇円を控除すると、七七四万三三七二円となる。

3  弁護士費用 七五万円(原告ら各自)

弁論の全趣旨によれば、原告らは本件訴訟の提起・遂行を原告ら訴訟代理人に委任し、着手金・成功報酬を支払うことを約したことが認められるところ、本件事案の性質、審理の経過、認容額等に鑑みると、原告らが本件交通事故と相当因果関係のある損害として被告清水に対して賠償を求め得る弁護士費用の額は、原告ら各自七五万円が相当である。

4  以上によれば、原告ら各自の被告清水に対する損害賠償請求額は、右2と3との合計八四九万三三七二円となる。

一〇  結論

以上の次第であるから、原告らの被告神奈川県に対する請求は、その余の点を検討するまでもなくいずれも理由がないからこれを棄却し、原告らの被告清水幸子に対する請求は、原告ら各自に対し八四九万三三七二円及びこれに対する本件交通事故発生日の後である平成二年一〇月二八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余はいずれも失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条一項を、仮執行宣言につき同法一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 根本眞 近藤ルミ子 河村俊哉)

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